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小池耀大(経営・3年)

今回のブログは小池耀大選手(経営・3年)のブログです。小池選手は様々なことに関心を持ち博識な一面を持ちます。生物学や戦闘機などのマニアックな情報を知っているため話していて新しい発見をすることができます。3年目の小池選手の走りに注目です。

こんにちは。
経営学部経営学科3年の小池耀大です。

近頃は木々もすっかり青々とし、晴れた昼間などは早くもほんのりと夏の気配が...
と当初序盤はこんな感じで進行する予定でした。実際これを書き始めた時は部屋で半裸になるほど暑かったため、夏来るのちょっと早いよ的なニュアンスの前口上をぐだぐだと述べ、そのままでは薄味ヘルシーで物足りない本文の内容を少しでも水増しし、薄味ボリューミーでお腹いっぱいな文章を目論んで、もとい目指していました。

ところが、推敲に推敲を重ねようよう500文字は書いた所で、数日雨が降って気温が落ちやがりまして、夏の気配などどこ吹く風、私の2時間ほどの労力と浅はかな企みは五月雨(梅雨じゃないけど)が集めてテレポート、山形県は最上川へと流れていってしまいました。とは言いつつ書いている途中にまた気温が上がってきたので、今からでも稲舟に乗って追いかけたいところですが時すでに遅し、今頃は日本海で魚の餌でしょう。もうどうしたって追いつきそうにありません。嗚呼、早いぜ最上川。

とまあ、冗談と水増しはこのくらいにしまして、ここからようやく本題です。
さて、この冬に私は右足の甲を骨折し、人生初の松葉杖を一か月半ほど経験したのですが、その中である事を実感しました。

ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、松葉杖での生活というのは中々に大変でしんどいものです。数分も歩けば体重に耐えかねて痛み出す腕、滑るわギブスが蒸れるわで散々な風呂はまだいい方で、壁の如く眼前にそそり立つ階段、360度全方位から迫りくる容赦ない人混み、心と心の距離より遠く感じるホームと電車の隙間等々、数々のトラップを擁する駅などは魔境も魔境、勇者が挑むダンジョンも斯くやといった有り様でした。
たかが片足の、それも幅一センチにも満たないような骨が真っ二つになっただけで、人間こうも弱るものかと、実家で母に介護されながら私は逆に感心しました。ホモ・サピエンスに社会性が無ければとっくに野垂れ死んでいたでしょう。ご先祖猿たちの進化の方向性に感謝です。国立博物館の人類コーナーの方にでも手を合わせておきましょう。ウホウホ。

この様なそこそこ不便な生活を送る中で私が実感したこと、それは想像することの限界です。
飲酒解禁間もない若輩ながら、これまで人生の半分以上はスポーツをしていますから、身近に松葉杖を突いている人がいたこともありました。そのため実際に体験する前から、松葉杖での生活がどのようなものか、想像くらいは出来ていると思っていました。しかし、その認識が全くもって甘かった事を私はこの冬しかと思い知らされ、先述の通り要介護者となって遠い昔の類人猿に頭を垂れることとなりました。そう、私は想像が足りていなかった、いや出来ていなかったのです。不便さの具体的な場面を、その大変さの程度を。

そろそろ、「たかが骨が一本折れたくらいで、何を長々と語っとるんだ。要約をしろ、要約を。」という声が聞こえてきそうなので結論を申しますと、何事も実際に体験しないと分からない事が多いよね、ということです。昨今は不用意な発言、発信による炎上が珍しくありません。私にとっての松葉杖生活の様に、知っているつもり、分かっているつもりが、実は本当の意味では全く理解できていないということは、世の中たくさんあるのではないでしょうか。

とは言え、全てを自分で体験することは到底不可能です。また、想像すること自体は悪という訳ではなく、むしろ体験することができない事柄について、理解できなくとも思いを巡らせることができるのは、身体能力を低下させてまで獲得した巨大な脳を持つ人間の特権と言えます。私の主張は想像することの否定ではなく、想像の結果については一定の謙虚さを持つべきだということです。古の賢者が言うところの、無知の知というやつです(ズレてたらごめんなさい)。

至極当然当たり前、この上ない周知の事実をドヤ顔で滔々と語る、なんだか痛くて偉そうな仕上りになっておりますが、推敲ではなく酔狂、入れる必要のない修飾・形容を思いつくままに放り込み、迷走に迷走を重ねた挙句に出来上がってしまったネット?リテラシー説教モドキですので、カルシウム不足の戯言と思って大きな心でにこやかにご容赦下さい。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

次回は中田紫音(コミュニティ福祉・2年)のブログです。来週も是非お読みください。

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